関西医療大学

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2015年07月13日

『小論語』の世界 -「学習」とは何か?

 この『論語』の冒頭(学而第一)は、「小論語」と言われます。日本の江戸時代の有名な儒者伊藤仁斎は『論語』の思想のすべての基礎が込められていると言っています。しかし、そのため「小論語」には様々な解釈がなされています。ここでは、多少我田引水になりますが、字源から「学而第一」述べられている思想を私なりにを辿ってみたいと思います。

(学而時習之 不亦説乎)

 何かを「学びたい」というのは人として本来持っている欲求や好奇心と言えます。未知の知識を探求し、また、新しい技術を身につけたいと思います。しかし、はじめの段階では、物事がよく理解できず知識や形式に振り回され、暗中模索の状態に陥ります。この模索の過程は「学而」と表現されています。すなわち、「学」の旧字は「學」で、両手を使い手取り足取り教わること。自分自身の五感や身体を使って「マネること」を意味しています。そして、「而」は、巫女や巫男の長い髪やひげをイメージしており、呪術的な長くて暗い時の流れを表現しています。そればかりか、惑い捉われ、自分自身を見失ってしまう危険をも暗示しています。『論語』為政第二、十五には「子曰く、学びて思わざれば則ち、罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」とあります。その危険性が述べられています。

 しかし、抱いた疑問を投げやりにせず、思考回路を常に開き、真摯に繰り返し学んでいると突然ひらめきの「時」が来が訪れます。そして、飛び立ちの時となります。「パタパタ(白々)」と雛が巣から羽音をたてて飛び立つイメージ、これが「習う」と言うことの原義です。このような「知の飛躍」が起こるとき、それはなんと楽しいことではないか。わくわくする気持ちになるではないか・・・と問いかけています。また、そこに到達したときの感激、学習過程の本当の楽しさと喜びを語っているのではないでしょうか。

 一方、この思想は日本の茶道や武道の伝統的文化や仏道の根本において「守・破・離」という言葉で伝承されてきました。すなわち、「学而第一」の条文「学而時習之」とは、「学而」(=「守」)から「時」(=「破」)を得て、「習之」(=「離」)へ、と飛躍・発展する学習過程を述べていることで基本的には共通しているのではないでしょうか。

(藤原稜三)

 この「守・破・離」という言葉は、もともとは兵法の修行の過程で用いられたと言われますが、今日では「学びごと」において一般的に使われ、「守」は下手、「破」は上手、「離」は名人を意味するとされています。しかし、上述したように「学而第一」の学習過程を考えると、「守」は惑いながらもひたすら学ぶこと、「破」は教えの言葉からある時突然抜け出し真意を会得すること、「離」は型にいっさいとらわれることなく、自由に飛翔する段階に達することを意味します。

 ここで、大学教育考えるうえで重要なことが二点あります。その一つは、どのような学習過程にも、与えられた体系をひたすら学ぶ、「守」の段階を踏まなければならないということです。もう一つは、その体系や教えの目的も、その規律や教え自体ではなく、むしろ、そこから抜け出し、新たな創造的な次元へと発展することにあります。最近の大学教育において、知識偏重ではなく独創性や個性を尊重することが、盛んに述べられるようになってきました。しかし、重要なことは、いかなる道においても前者の「守」の段階、すなわち「学而」の状態がまずなければならないことです。そうして初めて、「学」から、ある「時」に豁然と「習」への飛翔ができるのではないでしょうか。

 次いで、第二の条文においては、遠方よりやって来た友について述べています。

(朋自遠方 不亦楽乎)

 思いもかけず、遠い遠いところから友がやって来る。談笑のうちに、お互いの学習回路が開かれ、打ち解けて真実を語り合う。それは、なんと楽しいことではないかと。しかし、これを比喩的表現と捉えると、「学」によってまだ惑いの段階にあり、身におびてはいるが、まだその本質に出会っていないとき、それが「習」のある時、突然に身体化されると。すなわち、不要なもの、余計なものが排除され、呪縛から抜け出した喜びを感じる、それが遠方より来て知己を得た友とものように感じられ、うれしいということではないでしょうか。

 最後に、第3の条文では学問への心がまえを述べています。

(人不知而慍 不亦君子乎)

 長い間、世人が自分を認めてくれなくても、怒って拒否的になり、学習回路を閉ざしてしまうこともない。それでこそ、「君子」ではないかと。どんな状況にあっても、この学習回路を常に「開いた」姿勢を相手に対して崩さず、「思考停止」や「思考拒否」をしないこと、すなわち、相手を拒絶したり、差別しないことが語られています。ここには、人間相互のコミュニケーションにおいて、相手に対して常に「学習回路」を閉じない姿勢を堅持することが、ハラスメントを生じさせないための必須条件であることが語られているように思われます。

 学習回路を開き、自己の「中心」がぶれることなく、心のままに偽りないあり方を、『論語』では「忠」と言い、他人への思いやりの心を失わないことを「恕」と言っています。すなわち、「忠」は、人のために誠をつくすこと、すなわち、まごころ。「恕」は、思いやりと言われます。「忠恕」は、まごころを持って、思いやること。『論語』における用例をみると、「忠」は、「曾子曰く、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか、と。」(学而第一の四)とあり、また、「恕」は、「子貢問いて曰く、一言にして以て終身之を行う可き者ありや、と。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施す勿れ、と。」(衛霊公第十五の二四)とあります。この「忠恕」の精神を会得した人が、「仁」たり得る「君子」と呼ばれます。

 最後に、「大学とは何か」とよく言われます。私は、いつも「修己治人」(『大学』)という言葉を思い出します。『論語』の中では、「脩己安人」(自分をおさめ人をやすらかにする)と述べられております。大学教育の本質は、常に思考回路を閉ざすことなく人とコミュニケーションでき、人々に「やすらぎ」を与える医療人を育成することにあると、私は考えています。これが、医療における「究極のホスピタリティ」を目指す基礎となると信じています。

関西医療大学 学長
吉田 宗平(よしだ そうへい)
  • 担当科目(学部)
    生命倫理
  • 大学院担当科目
    神経内科学概論、内科・神経内科学特論講義・演習
  • 学位
    医学博士
  • 取得資格
    認定内科医、日本神経学会専門医・指導医、東洋医学会専門医、NPO日本ハーブ振興会Profeesional Adviser of Herb (PHA)資格
  • 大学院(研究指導内容)
    鍼灸への神経学的アプローチとその治効機序の科学的解明、脈診の科学化とノジェらによる耳介療法の治療・診断システムの構築、ハーブ・アロマテラピーの研究