2016年04月04日
平成28年度 入学式式辞
桜も満開のこのよき日、平成二十八年度 関西医療大学並びに大学院入学式を挙行するに当たりましてご来賓の皆様方には公私共ども何かとご多用の中、本式にご臨席賜り誠に有難うございます。熱く御礼申し上げます。
新入生の保健医療学部219名、保健看護学部101名の計320名の皆さん、及び大学院生8名の皆さん、また、ご列席のご父兄の皆様には、この度のご入学、誠におめでとうございます。
私ども教職員一同、心から皆さんを歓迎し、これからの希望の実現へ向け、精一杯努力したいと思います。大学での四年間、大学院の二年間、皆さんが自信と誇りを持って勉学に励まれますよう、心から支援したいと思っています。
本学園は、建学の精神「社会に役立つ道に生きぬく奉仕の精神」のもと、創始者武田武雄が、昭和32年大阪「あべの」に現在の関西医療学園専門学校を設立したことに始まります。その後、昭和60年には、関西鍼灸短期大学を熊取町に開学し、平成15年には、新たに四年制大学として改組変更し、関西鍼灸大学となりました。更に、平成19年には関西医療大学と名称変更し、以来、広く保健・医療の分野に門戸を開てきました。
ここ十数年で、本学は、大学の保健医療学部4学科と保健看護学部1学科、そして大学院の保健医療学1研究科を合わせて、学生総数、1233名を擁する保健医療系の総合大学へと、大きく発展してきました。特に、鍼灸など東洋医学的な伝統を生かし、西洋医学と融合し、全人的医療を担える人材の育成を目標としてきました。
毎年、春は巡ってきます。
今朝、皆さんはどんな気持ちで朝を迎えられたでしょうか?
「春、それは混沌から生まれる宇宙。どの季節も、それが巡ってきたときは最高のものに思えるのだが、わけても春の訪れは、混沌からの宇宙の創造、黄金時代の到来のように思える。」と、思想家ヘンリー・ディビッド・ソローは、彼の名著『ウォールデンー森の生活』の中で語っています。彼は、1845年、 米国独立祭の日に、ウォールデン池のほとりで、自給自足の「森の生活」を始め、思索を深めました。そのことにより「思索と<<自然>>の学士」と呼ばれました。
また、彼は、「市民の不服従」、良心的不服従の理念を称え、トルストイやガンジーに深い感銘を与えたことはよく知られています。
その著書の中で、「春という季節は、すべてを一度許すために巡ってくる。一度小雨が降っただけで、草の緑は濃さを増す。同様に、よい思想が入ってくると、僕たちの展望も明るくなる。もし常にいま生き、わずかに降りた露の影響さえ正直に表す草のように、この身に起こるあらゆる出来事をうまく活かすことができれば、僕たちは幸福になれるだろう。すでに春が来ているのに、僕たちはまだ冬をさまよっている。すがすがしい春の朝には、人間はすべて許されるのだ。」と述べています。
寒くて、長い冬の惑いの中から、春の暖かい日差しへと躍り出たような初々しい皆さんへの、ソローからの「新たなスタートの春へのメッセージ」のようです。
さて、私たちの身の回りの大学教育の現状を見てみますと、今や日本は、少子超高齢社会へと突入し、少産・少死となり、人口構造が大きく変貌しています。また一方では、ITの急速な進展により、高度な知識産業社会となり、グローバル化が急速に進行する中で、明治以来の大学教育の「大改革」が求められています。
ソローの『森の生活』に見られるような十九世紀の豊かな、古きよき時代とは対照的に、私たち人間を取り巻く社会環境は、近年のIT革命の驚異的な発展と相まって激変しています。「ムーアの法則」と言われるようにIT機器は1年半で半値となり、急速に夥しいIT機器や情報が社会に氾濫するようになりました。
その中で、翻弄された私たちの「脳」は、自然のリズムや瑞々しい感性を失い、悲鳴をあげているのではないでしょうか。
現代人は、自然との接触を失ったヴァーチャル空間の中で、知らずしらずのうちに深刻な「脳疲労」に陥っていると言われています。うつやパニック障害など、ストレス性精神疾患が増大しており、働く人たちのストレスの管理が、一般企業や大学などの組織においても、法的に義務づけられるようになって来ました。
また、私たち現代人は、「ひょっとしたら、自分の脳の使い方さえ解らなくなっているのかも知れない」と脳科学者の茂木健一郎氏は警告しています。
私たちが、日々生活の中で獲得する知識は、けっしてむきだしの素材のまま「脳」に記憶される訳ではありません。それは、様々な体験と関連づけられて初めて、生きた意味をもつ「智慧」として蓄えられます。知の在り方には、「生活知」と「世界知」と呼ばれる、二つの知のタイプがあります。
「生活知」とは、私たちの実生活に寄り添った、生きた自助努力や友人・家族などと協働した、いわゆる、よりよい生活を送るための日々の選択の判断材料となるような、身近な一人称や二人称の世界で得られた「教養」を意味します。
一方、「世界知」は、疎遠な、三人称の世界の中で、「生きていくための武器」としての教育や学習の中で獲得されて行く、いわゆる客観的、科学的な「知識」を意味します。
しかし、「生活知」においては、を自分自身と家族や友人との間の喜怒哀楽の感情に押し流され、一人称の狭い偏見の枠に捉われて、人間関係を壊してしまう失敗を犯してしまうことがままあります。
また一方、「世界知」においては、生きた知を私たちの生から切り離し、冷たい、三人称の客観的な世界の側に押やって、こころの暖かみや感情を失ったものにしてしまいがちです。
このように両極端な、二分された私たちの「知」のあり方を克服するためには、この二つの「知」の関係をよく考える必要があります。うまく両者のバランスを取ること、三人称の「世界知」をもっと身近な一人称の「生活知」の側に引き寄せ、豊かなものとすること、そうした努力が求められています。
少し話が変わりますが、「死を考えるとは、生を考えることである」とよく言われます。
私たち人間にとって、「死」は、生ある限り、重大なテーマで、これから命を守る医療人として、これから成長を目指す皆さんにとっても、避けて通れない重要な問題です。
現代フランスの哲学者ジャンケレビッチ氏は、誰との「死」を考えるか、自分と他者との係わり方から、すなわち、私を中心とした「死の人称性」という視点から、問題提起しています。
第一に、「一人称の死」とは、勿論私の死で、自分はどこでどのような死をむかえたいか、どのような死を尊厳死と考えているか。そして、ここでは死の前でどう生きるべきか、何をなしとげたいかという生き方そのものが問われます。
第二に、「二人称の死」は愛する人の死(家族や親友の死)で、そこには、二つの課題があります。一つは、旅立つ人を支える役割と、もう一つは、残された者のグリーフワークの営みです。
そして、第三の「三人称の死」には、比較的身近な親戚や友人・知人の死からアカの他人の死、事故や地震などの災害による死、また、国際的なテロによる死までを含みます。
ここで私たち医療人にとって、重要なのは、患者さんやクライエントの死は、決して無味乾燥な関係にあるのではなく、単なるアカの他人の「三人称の死」とは異なる、ということです。すなわち、医療人としては、より身近な視点として、一、二人称と三人称の間に、もう一つの新たな「二・五人称の視点」がなければならないと、ノンフィクション作家の柳田邦男氏は指摘されています。
医療人が、単なるガイドラインやマニュアルとかに頼って、機械的に三人称の仕事をこなすだけになってしまったら、温もりもおもいやりもない医療となります。かといって、 一方で、一、二人称の枠に囚われ、自分の激情に流されたり、相手の感情にまで同化してしまっては、客観性も冷静さも失い、医療人としての専門性を発揮することが難しくなります。
医療の中では、二人称の相手のこころに寄り添いつつも、専門職としての三人称の客観性、冷静さを失わない姿勢、すなわち、左右にぶれない、バランスを保った「二・五人称の視点」が必要とされます。
また、この視点から得た実践的な「知」を、哲学者の中村雄二郎氏は、「臨床の知」と呼んでいます。そして、「人間の体温を絶対零度にした近代科学の知に対し、血流と体温を再生させる思想であり、視点であり、方法として、更に深化させなければならない」と述べられています。
私ども医療人とって、この「二・五人称の視点」を身に付け、生きた「臨床の知」を磨くことが、医学教育の「本来の使命」ではないか、と思っています。
また、この二・五人称の視点から得た「臨床の知」こそが、現代のチーム医療の中で言われる、インフォームドコンセントとコミュニケーションを成立させる必須の条件ではないでしょうか?
私の学んだ米国Mayo Clinicでは、「究極の医療」を目指す"百年のブランド"として、三つ指針を上げています。
第一に、患者の利益がまず優先すること
(The needs of patients come first)
第二に、患者の最大限の利益を常に追求すること
(The Best Interest of Patient)
最後に、医療とは協調とチームワークを要する協力の科学である、と。
(Medicine is a cooperative science, requiring collaboration and teamwork、1910年)
ソローの言うように、「春の混沌からの宇宙の創造、黄金時代の到来」の秘かな足音を敏感に聞き分け、未知の出来事を察知して、積極的に自分の生き方に組み入れていく能力、更に加えて、現代の私たちは、「二・五人称」の視点を持って、いかに「臨床の知」として血肉化された教養を身につけるのか、それが大学における「学び」、大学教育の本来の目的ではないかと思います。
ひいては、本学の建学の精神「社会に役立つ道に生きぬく奉仕の精神」とも、その真意においては相通ずるものと私は思っています。
さて最後に、もう一つ、
小説家島崎藤村は、「三智」(三つの智慧)ということを述べています。
「人の世に三智がある 学んで得る智 人と交わって得る智 みづからの体験によって得る智がそれである」と。
そして、人間としての基礎をつくる「生きた教養」を身に付けるための術は、この三つ以外にはないと、述べています。
これからの四年間、皆さんは、大学生活の中で、「三つの学び」を通して、生きた教養、「臨床の知」を身につけた医療人として成長して頂きたいと願っています。
どうか、今日、ここからその第一歩を踏み出して頂きたいと思います。
平成二十八年四月四日
関西医療大学学長 吉田宗平