2018年05月15日
平成30年度 入学式式辞
「夜の次に朝が来て、冬が去れば春になるという確かさ」、その中には限りなくわたしたちを癒してくれる何かがある」
と、アメリカの女性海洋生物学者、『沈黙の春』を著したレイチェル・カーソンは述べています。
この春のよき日、平成三十年度関西医療大学並びに大学院入学式を挙行するに当たりまして、熊取町長藤原敏司様、本学園交友会会長黒山紀男様をはじめ、ご来賓の皆様方には公私共ども何かとご多用の中、本式にご臨席賜り誠に有難うございます。熱く御礼申し上げます。
また、この式の後、特別講演をして頂きます、株式会社ヒューマン・スキル・カレッジ代表取締役で、本学客員教授でもあります、坂東弘康先生にもご臨席いただき誠に有難うございます。
この度、入学して頂いた、保健医療学部259名、保健看護学部104名、合わせて、364名の大学新入生の皆さん、また、大学院は、7名の入学生の皆さん、そして、ご列席のご父兄の皆様には、この度のご入学、誠におめでとうございます。
私ども教職員一同、心から皆さんを歓迎し、期待に沿えるよう、精一杯努力してきたいと思います。大学での四年間、大学院の2年間、皆さんが自信と誇りを持って勉学に励まれますよう、心から支援したいと願っています。
本学園は、建学の精神「社会に役立つ道に生き抜く奉仕の精神」のもと、創始者武田武雄が、昭和32年大阪「あべの」に、現在の関西医療学園専門学校を設立したことに始まります。その後、昭和60年に、関西鍼灸短期大学を泉南郡熊取町に開学し、平成15年には、四年制大学として改組変更し、関西鍼灸大学となりました。更に、平成19年、関西医療大学と名称変更し、以来、広く保健・医療分野に門戸を開てきました。
そして、昨年度、本学園は、六十周年無事を迎えることが出来ました。
また本年度、大学には、新たに作業療法学科が加わり、保健医療学部は5学科となり、保健看護学部の保健看護学科と合わせて、大学は、2学部6学科となりました。
大学院には、保健医療学研究科(修士課程)があります。
現在、本学は、大学と大学院を合わせましと、学生総数1311名を擁する保健医療系の総合大学となり、ここ十数年で、大きく発展してまいりました。
これまで、建学の精神に則り、鍼灸学をはじめとする東洋医療の伝統のもと、西洋医学と融合した全人的医療を担う人材の育成を目指し、社会に貢献してきた成果ではないかと感謝しております。
また、本学のクレド(信条)には、究極のホスピタリティを提供し、単なる技術ではなく、自然と人のつながりを大切にする科学的精神と人間性を備えた、ヘルス・アートとしての医療を実践できる人材の育成を、到達目標として掲げてきました。
さて、先ほど述べたアメリカの女性海洋生物学者レイチェル・カーソンは、1962年『沈黙の春』を著し、環境問題を世に問いました。そして翌年には、世界平和や人道援助活動などで貢献したことでシュバイツアー・メダルを受賞しています。
その『沈黙の春』巻頭には、アルベルト・シュバイツァーに捧ぐ、シュバイツァーの言葉― 「未来を見る目を失い、現実に先んずるすべを忘れた人間。その行き着く先は、自然の破滅だ。」とあります。
また、彼女は、自分の母のことを、「私が知っている誰よりも、アルベルト・シュバイツアーの『生命への畏敬』を体現していた」と、その母に育てられた生い立ちを感慨深く回想しています。
レイチェルの高校卒業アルバム写真の下にはこんな詩が書かれていたそうです。
レイチェルは真昼の太陽
いつも輝かしく
納得するまで学ぶことをやめない
正しい答えにたどり着くまでは
彼女は、高校時代は、文章がうまく、「作家になること」が夢でした。しかし、ペンシルバイニア女子大学二年生のとき、人生を変えた出会いがありました。それは、女性生物学者のメアリー・スコット・スキンカー先生との出会いでした。当時は、「科学は女性に向かない」という凝り固まった偏見と、それゆえの排除の論理がまかり通る社会でした。スキンカー先生は一人の女性として、その社会の中で、懸命に闘いながら科学者としての道を切り拓いていこうとしていました。その先生との出会いに電撃のような予感を覚え、レイチェルは、その後の進路を生物学へと変え、ジョン・ホプキンズ大学大学院へ進学しました。しかし、その道は、けっして平坦ではありませんでした。それでも、苦労の末、海洋生物学者としてアメリカ内務省漁業局に採用され、海洋生物、海と海のなかにいる生物についてのエッセイ文章を書くうちに、文学的才能を認められ、『潮風の下で』と題して一冊目の本を書きました。膨大な文献を生来の性格から調べ尽くし、その著書の中で、「自然は壮大な連鎖のなかにある、人間も含めた様々なネットワーク、たえまなく繰り返す連鎖の中にある」、と述べています。
その著書は、「そこには詩情があるが、感傷はない」、すぐれた文学の香りのするノンフィクション文学であると高く評価され、彼女は「海の伝記作家」と呼ばれるようになりました。しかし、当時、第二次世界大戦が勃発し、その讃辞とは裏腹に本は全く売れませんでした。
やがて、戦後、「科学の時代」が訪れずれ、人々の関心が、自然界でそれまで未知とか謎とされていたものに向けられるようになりました。その中で、二冊目の『われらをめぐる海』を出筆し、『潮風の下で』が再版され、さらに三冊目の『海辺』が出版されて、海の三部作が完成しました。海について書く作家としてレイチェル・カーソンは、文学の世界でも科学の世界でもその地位を不動のものとしました。
一方、1939年スイスの科学者パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫剤DDTが発見され、第二次世界大戦中から熱帯地方など害虫に苦しむ世界各地の戦場で使われました。実際、伝染病を媒介する害虫には効果が大きく、発疹チフスやマラリアを撲滅させました。
終戦直後、日本でも、国中にノミやシラミがはびこっていたため町中のあちこちで白い粉が撒かれていました。この情景は、私の幼い頃の記憶にも残っています。
また、農薬としても、DDTは害虫駆除にめざましい効果を上げ、農業の生産性が飛躍的にのびました。そのため、世界中で利用され、DDTは「魔法の薬」とも「世界の救世主」とも呼ばれました。
この業績に対して、ミュラーはノーベル(生理学・医学)賞を受賞しています。しかし、DDTをはじめ殺虫剤や農薬は、合成化学薬品であるため、もともと自然界にはないもので、分解されにくく、有害な状態で長い間環境中に残留するという問題点がありました。そして、環境中に残留した有害物質がやがては食物連鎖によって生きた物たちの体内に取り入れられ、蓄積し、次々と深刻な異変を引き起こしていました。そのことに対しては、当時、人々も行政も目を向けようとしませんでした。彼女は、この問題の調査・研究を進めていく中で、世界中の研究者たちにも疑問点を尋ね、助言を求めましたが、返って反感をかうばかりでした。こうして最後には、彼女は、募る危機感から、「私が書くしかない」と、決意しました。しかし、不幸にも、その年、最愛の母亡くなりました。更に、2年後、彼女の胸部に悪性腫瘍が発見されました。それでも、「納得するまで学ぶことをやめない」粘りで、彼女は、執筆を押し進めました。彼女は体調の悪化と闘いながら本を書き上げました。そして、最後まで思い悩んだのは、その本の題名でした。これを助けたのは、長年の友で、彼女を支えてきた助手のマリーでした。マリーは、『沈黙の春』という題名はどうかと彼女に提言しました。それは、イギリスの詩人、ジョン・キーツの詩の一節、「湖のスゲは枯れ果てた、そして鳥はうたわない」から連想したものでした。
一方、レイチェル自身も、『そして、鳥は鳴かず』という章の中で「春がきたのに鳥は鳴かない」と書いていたからです。正に、キーツの詩と共鳴する情景を書いていたからです。
1962年、『沈黙の春』は出版されましたが、ニューヨーク・タイムズは、「『沈黙の春』はいまや"騒がしい夏"になったと、当時アメリカで起きていた大論争を伝えました。彼女は〈自然に仕える修道女〉と揶揄され、殺虫剤や農薬業界の巨大資本と戦うだけでなく、「女のくせに身のほど知らずのことはするな」という当時の根拠のない男性優位をふりかざす、アメリカの古い道徳観や価値観とも戦わなければなりませんでした。
この激しい、国を二分するほどの論争に終止符を打ったのは、ときの大統領、ジョン・F・ケネディでした。彼は、この論争は、国民の健康や生命、ひいては地球の未来に重要な意味を持つと考えていました。ケネディ大統領は、翌1963年には、大統領直属科学諮問委員会を設置し、八か月間の調査と検証を経て、『沈黙の春』の正当性を認めたのでした。そして同年、彼女は、シュバイツアー・メダルを受賞しました。それは、1957年、アルベルト・シュバイツアーが「核実験禁止アピール」の中で《人間自身がつくり出した悪魔が、いつか手に負えないべつのものに姿を変えてしまった》と語っていたことに、深い感銘を受け、敬意を表して、巻頭にシュバイツアーの言葉を上げ、『沈黙の春』を捧げたことによります。そして、最後の講演をサンフランシスコで、しましたが、翌年の1964年、彼女は56歳で、ガンと戦いながら息を引き取っています。
この『沈黙の春』は、今や、地球の環境問題・自然保護の古典、バイブルとなっています。東日本大震災、福島第一原発事故後、日本でも、この本の読者が増えてきていると言われています。それは、何を物語っているのでしょうか?
この著書の中で、彼女は。「核実験で空中に舞い上がったストロンチウム90は、やがて雨やほこりにまじって下降し、土壌に入り込み、草や穀物に付着し、そのうち人体の骨に入り込んで、その人間が死ぬまでついてまわる。だが、化学物質もそれにまさるとも劣らぬ禍をもたらすのだ」と述べています。1990年の時点で、彼女は、放射能と同時に化学物質も同様に深刻な問題だと捉え、「こういうことこそ人類全体のために考えるべきだ」と訴えていたからです。
そして、彼女は警告しています。
「わたしたち、はいまや分かれ道にいる。だが、どちらの道を選ぶべきか、いまさら迷うまでもない。長いあいだ旅してきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。その行きつく先は、禍であり破滅だ。」と。「もう一つの道は、あまり《人も行かない》が、この道を行く時こそ、私たちは自分の住んでいるこの地球の安全を守れる。」「そして、私たちが身の安全を守ろうと思うならば、最後の、唯一のチャンスといえよう。とにかく、どちらの道をとるか、決めなければならないのは私たちなのだ。」と語っています。
レイチェルが亡くなって、すでに半世紀以上が過ぎました。
現代の日本の私たちとっても、甚大な原発事故を起こした「3.11」から7年が過ぎました。しかし、「安全神話」をつくろうとする姿勢は、なお克服されていません。
21世紀の日本は、人口減少と少子高齢化が加速する中で、核家族化や家庭での男女の役割分担が変化し、女性の社会進出が目覚ましく、一方では、増加する高齢者などとの多様で、多世代に亘る生活・労働環境へと変貌しつつあります。また、都市化と地方と中央との格差拡大などAIの進展に伴う知識基盤社会への急激な変化の中で、皆さんの世代の価値観も大きく変わろうとしています。
レイチェルの言うような〈べつの道〉を模索することも考えるべきではないでしょうか。
「競争」よりも「共生」、「物質的な豊かさ」よりも、「自然と共生する豊かさ」、すなわち、皆さんの世代には、「物」より「心」、「効率」より「安定」を求めること、あまり《人も行かない》べつの道を選択し、自然と共生する価値観へと軸変換することが大切ではないでしょうか。これから本学で医療の道を歩み始める皆さんは、広い視野で、地球上の多様な生命の繋がりを深く学び、それを見失わない生き方をして欲しいと思います。
レイチェルは、「私たちが住んでいる地球は人間だけのものではない」、「ひとりで生きているものはなにもない」と言っています。皆さんも、そのことを忘れないで頂きたいと思います。
彼女の死の翌年、〈センス・オブ・ワンダー〉という本が出版されました。この題名は、「自然と生命の神秘さ、不思議さに目をみはる感性」を意味しています。
「この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する変わらぬ解毒剤になるのです」すなわち、「子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感性は、この種子をはぐくくむ肥沃な土壌です。」「美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐み、讃嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、つぎは、その対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身に付きます」、そして、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」と、レイチェルは述べています。
最後に、シュバイツアーも「理性とは、認識と幸福を求める欲求である。すべての認識は、生命の謎に対する驚きである。『認識』とは、結局は『生命への畏敬』なのであると述べています。この言葉は、正に、レイチェルの〈センス・オブ・ワンダー〉そのものです。
どうか皆さんは、この言葉を忘れずに、泉州の海と山に囲まれた豊かな田園の街で、これからの大学生活をエンジョイし、自然や人との出会い、そして、つながりを大切にして、〈センス・オブ・ワンダー〉の土壌を自ら培い、その上にヘルス・アートを身に着け、究極のホスピタリティを実践できる医療人を目指して頂きたいと思います。
あらためて、ご入学おめでとう御座います。
平成三十年四月五日
関西医療大学学長 吉田宗平