学長室へようこそ。

2017/01/18

Message.04

平成29年度 年頭のあいさつ

皆さん、明けましておめでとう御座います。
今年の干支は、「酉」です。はばたくという意味で、「飛躍の年」と言われます。皆さんは、もう初詣に行かれたかと思いますが、神社には絵馬が飾ってあります。

京都の私の住む嵐山の近くに松尾大社があります。今年は、十二支の絵馬を懸命に完成させた後、末期ガンで亡くなったある版画家の「鶏の大絵馬」が掲げられました。このあとも干支が一巡シするまで、その版画家の絵馬を飾る予定だそうです。「酉」の氵(さんずい)を付ければ「酒」と言う字になります。同大社は酒造りの神を祭る神社でもあります。何か正月の酒は陽気で、この絵馬の朝を告げる鶏にあやかり、「酉年をきっかけに、社会が明るくなれば・・・」との願いが込められています。

「酉」にあやかって、もう一つ余談ですが、前前学長の八瀬善郎先生は、ご自宅を「鯤亭」と言われています。鯤というのは、『荘子』の内編第一編「逍遥遊」、悠然と物事にこだわらず遊ぶという意味ですが、その話の中に出てくる暗い海に住む大きな魚を意味しています。魚(へん)に昆虫の「昆」と書きます。

もともとは、小さな魚、まだお腹から出ていない「はららご」を意味したようですが、それが巨大な鳥、いわゆる大鵬となって、大海原に大風を巻き起こして舞上がり、何にも捉われず、九万里の天空、宇宙に飛び上がる話です。ちなみに、かつての横綱大鵬の名はここから由来するそうです。

そして、さらに驚いたことに荘子は、大鵬の目を通して地上を見返した時、地球は蒼蒼としていたと述べています。やっと人類が月に到達し、「地球は青かった」と述べたガガーリンの二千数百年前、紀元前にすでに壮大な創造力をもって、地球を見ていた荘子の壮大な見地には全く驚かされます。

さて、ここで寓話の世界を離れて、現実の世界に戻りたいと思います。昨年は、皆さんのお蔭で、本学として第2回目の「認証評価」を受け、「可もなく不可もなく」と標準的で、無難な評価を受けています。大学としての基礎は出来ているとの評価でしょうか。しかし、残された課題は、まだまだ多あります。

私学として建学の精神「社会に役立つ道に生き抜く奉仕の精神」のもと、どう独自性を持った大学として築きあげるか、他の大学とどこが違うのか、どこに本学の存在価値があるのか、を明確にしていくことです。すなわち、本学が、これから2018年問題としてやって来る少子化による社会変動、すなわち、高度成長時代の高潮の頂点を過ぎてやってくる深刻な引き潮の力に抗して生き抜くためには、全員が一体となるための羅針盤、指針が必要です。それには、本学の「建学の精神」と「クレド」、そし現在皆さんとともに懸案中の「三つのポリシー」を中心軸として、大学の「質」と「独自性」を改革する方向を明らかにすること、学生にとって「価値ある大学」にすることが緊急の課題として求められています。

「少子化」と「大学の作り過ぎ」、この二つが今日の大学経営の元凶といわれています。1999年頃から、大学への進学希望者と入定員のバランスが崩れ始め定員割れという事態が増え始め、現在は40%を超えるまでに至っています。本学にもその前兆がないとは言えません。この「定員割れ」こそ、大学の赤字経営のキーワードであり、それは絶望的な「募集停止」、いわば大学の「心肺停止」に直結していきます。この1月はセンター入試の時期でありますが、共同してきたプール学院大学はすでに大学機構自体の大改革を始めています。この危機をどう乗り切るか、大学によって課題は様々異なります。

しかし、この危機こそチャンスだという考えもあります。

「最も大切なことは、大学に入学してくる者、学生が大学教育の中でいかに成長できるか、どういった人間になって社会にでていけるか」と言うことだといわれます。本学が独自のミッション(使命)、すなわち、どうしても医療人として成長するためには本学を選びたいと高校生に思ってもらえる独自のミッションを掲げる必要があります。大学と学生の「適切な出会い」を図るためには、大学のミッションと学生の希望を「マッチング」することが大切です。

その意味で、「自分たちが提供できる教育」とは何か、を真摯に問いかけて、それを具現化できる「三つのポリシー」に仕上げることが緊急の課題と思われます。それには、大学の教育力の再生とわれわれ教職員の自己改革が是非とも必要です。

本学は、本年度臨床検査学科が完成年度を迎え、更には平成30年度には作業療法学科を新設して2学部6学科の医療総合大学へと更に発展する計画をもっています。そして、学園全体としては、創立60周年を迎えます。本年はそのための「飛躍の年」として、「大鵬の理念」をもって教職協働、一丸となって天を目指すことを願って止みません。

しかし、皆さんの一歩一歩が積み重なり、この理念の実現に繋がることが最も大切だと思います。「一の字、積の字恐るべし」と幕末の志士達の精神的主柱であった佐藤一斎はのべています。
この「飛躍の年」をどうかともに、一歩一歩大学の改革へ向けて、教職協働して歩もうではありませんか。

平成29年1月6日
関西医療大学
学長 吉田宗平

2016/04/04

Message.03

平成二十八年度入学式式辞

桜も満開のこのよき日、平成二十八年度 関西医療大学並びに大学院入学式を挙行するに当たりましてご来賓の皆様方には公私共ども何かとご多用の中、本式にご臨席賜り誠に有難うございます。熱く御礼申し上げます。

新入生の保健医療学部219名、保健看護学部101名の計320名の皆さん、及び大学院生8名の皆さん、また、ご列席のご父兄の皆様には、この度のご入学、誠におめでとうございます。

私ども教職員一同、心から皆さんを歓迎し、これからの希望の実現へ向け、精一杯努力したいと思います。大学での四年間、大学院の二年間、皆さんが自信と誇りを持って勉学に励まれますよう、心から支援したいと思っています。

本学園は、建学の精神社会に役立つ道に生きぬく奉仕の精神のもと、創始者武田武雄が、昭和32年大阪「あべの」に現在の関西医療学園専門学校を設立したことに始まります。その後、昭和60年には、関西鍼灸短期大学熊取町に開学し、平成15年には、新たに四年制大学として改組変更し、関西鍼灸大学となりました。更に、平成19年には関西医療大学名称変更し、以来、広く保健・医療の分野に門戸を開てきました。

ここ十数年で、本学は、大学の保健医療学部4学科と保健看護学部1学科、そして大学院の保健医療学1研究科を合わせて、学生総数、1233名を擁する保健医療系の総合大学へと、大きく発展してきました。特に、鍼灸など東洋医学的な伝統を生かし、西洋医学と融合し、全人的医療を担える人材の育成を目標としてきました。

毎年、春は巡ってきます。
今朝、皆さんはどんな気持ちで朝を迎えられたでしょうか?

「春、それは混沌から生まれる宇宙。どの季節も、それが巡ってきたときは最高のものに思えるのだが、わけても春の訪れは、混沌からの宇宙の創造、黄金時代の到来のように思える。」と、思想家ヘンリー・ディビッド・ソローは、彼の名著『ウォールデン森の生活』の中で語っています。彼は、1845年、 米国独立祭の日に、ウォールデン池のほとりで、自給自足の「森の生活」を始め、思索を深めました。そのことにより「思索と<<自然>>の学士」と呼ばれました。

また、彼は、「市民の不服従」、良心的不服従の理念を称え、トルストイガンジー深い感銘を与えたことはよく知られています。

 その著書の中で、「春という季節は、すべてを一度許すために巡ってくる。一度小雨が降っただけで、草の緑は濃さを増す。同様に、よい思想が入ってくると、僕たちの展望も明るくなる。もし常にいま生き、わずかに降りた露の影響さえ正直に表す草のように、この身に起こるあらゆる出来事をうまく活かすことができれば、僕たちは幸福になれるだろう。すでに春が来ているのに、僕たちはまだ冬をさまよっている。すがすがしい春の朝には、人間はすべて許されるのだ。」と述べています。

寒くて、長い冬の惑いの中から、春の暖かい日差しへと躍り出たような初々しい皆さんへの、ソローからの「新たなスタートの春へのメッセージ」のようです。


さて、私たちの身の回りの大学教育の現状を見てみますと、今や日本は、少子超高齢社会へと突入し、少産・少死となり、人口構造が大きく変貌しています。また一方では、ITの急速な進展により、高度な知識産業社会となり、グローバル化が急速に進行する中で、明治以来の大学教育「大改革」が求められています。

ソローの『森の生活』に見られるような十九世紀の豊かな、古きよき時代とは対照的に、私たち人間を取り巻く社会環境は、近年のIT革命驚異的な発展と相まって激変しています。「ムーアの法則」と言われるようにIT機器は1年半で半値となり、急速に夥しいIT機器や情報が社会に氾濫するようになりました。


 その中で、翻弄された私たちの」は、自然のリズムや瑞々しい感性を失い、悲鳴をあげているのではないでしょうか。

現代人は、自然との接触を失ったヴァーチャル空間の中で、知らずしらずのうちに深刻な「脳疲労」に陥っていると言われています。うつパニック障害など、ストレス性精神疾患が増大しており、働く人たちのストレスの管理が、一般企業や大学などの組織においても、法的に義務づけられるようになって来ました。

また、私たち現代人は、「ひょっとしたら、自分の脳の使い方さえ解らなくなっているのかも知れない」と脳科学者の茂木健一郎氏は警告しています。

私たちが、日々生活の中で獲得する知識は、けっしてむきだしの素材のまま「に記憶される訳ではありません。それは、様々な体験と関連づけられて初めて、生きた意味をもつ智慧」として蓄えられます。知の在り方には、「生活知」と「世界知」と呼ばれる、二つの知のタイプがあります。

生活知」とは、私たちの実生活に寄り添った、生きた自助努力や友人・家族などと協働した、いわゆる、よりよい生活を送るための日々の選択の判断材料となるような、身近な一人称や二人称の世界で得られた「教養」を意味します。

一方、「世界知」は、疎遠な、三人称の世界の中で、「生きていくための武器」としての教育や学習の中で獲得されて行く、いわゆる客観的、科学的な知識」を意味します。

しかし、「生活知」においては、を自分自身と家族や友人との間の喜怒哀楽の感情に押し流され、一人称の狭い偏見の枠に捉われて、人間関係を壊してしまう失敗を犯してしまうことがままあります。

また一方、「世界知」においては、生きた知を私たちの生から切り離し、冷たい、三人称の客観的な世界の側に押やってこころの暖かみや感情を失ったものにしてしまいがちです。

このように両極端な、二分された私たちの「のあり方を克服するためには、この二つの「知の関係をよく考える必要があります。うまく両者のバランスを取ること三人称の世界知」をもっと身近な一人称の生活知」の側に引き寄せ、豊かなものとすること、そうした努力が求められています。

少し話が変わりますが、「死を考えるとは、生を考えることである」とよく言われます。
私たち人間にとって、「」は、生ある限り、重大なテーマで、これから命を守る医療人として、これから成長を目指す皆さんにとっても、避けて通れない重要な問題です。

現代フランスの哲学者ジャンケレビッチ氏は、誰との「」を考えるか、自分と他者との係わり方から、すなわち、私を中心とした「死の人称性」という視点から、問題提起しています。

第一に、一人称の死」とは、勿論私の死で、自分はどこでどのような死をむかえたいか、どのような死を尊厳死と考えているか。そして、ここでは死の前でどう生きるべきか、何をなしとげたいかという生き方そのものが問われます。

第二に、二人称の死」は愛する人の死(家族や親友の死)で、そこには、二つの課題があります。一つは、旅立つ人を支える役割と、もう一つは、残された者のグリーフワークの営みです。

そして、第三の三人称の死」には、比較的身近な親戚や友人・知人の死からアカの他人の死事故や地震などの災害による死、また、国際的なテロによる死までを含みます。

ここで私たち医療人にとって、重要なのは、患者さんやクライエントの死は、決して無味乾燥な関係にあるのではなく、単なるアカの他人の「三人称の死」とは異なる、ということです。すなわち、医療人としては、より身近な視点として、一、二人称と三人称の間に、もう一つの新たな「二・五人称の視点」がなければならないと、ノンフィクション作家の柳田邦男氏は指摘されています。

医療人が、単なるガイドラインやマニュアルとかに頼って、機械的に三人称の仕事をこなすだけになってしまったら、温もりもおもいやりもない医療となります。かといって、 一方で、一、二人称の枠に囚われ、自分の激情に流されたり、相手の感情にまで同化してしまっては、客観性も冷静さも失い、医療人としての専門性を発揮することが難しくなります。

医療の中では、二人称の相手のこころに寄り添いつつも、専門職としての三人称の客観性、冷静さを失わない姿勢、すなわち、左右にぶれない、バランスを保った二・五人称の視点」が必要とされます。

また、この視点から得た実践的な「知」を、哲学者の中村雄二郎氏は、「臨床の知」と呼んでいます。そして、「人間の体温を絶対零度にした近代科学の知に対し、血流と体温を再生させる思想であり、視点であり、方法として更に深化させなければならない」と述べられています。

私ども医療人とって、この「二・五人称の視点」を身に付け、生きた「臨床の知」を磨くことが、医学教育の「本来の使命ではないか、と思っています。

また、この二・五人称の視点から得た「臨床の知」こそが、現代のチーム医療の中で言われる、インフォームドコンセントとコミュニケーションを成立させる必須の条件ではないでしょうか?

私の学んだ米国Mayo Clinicでは、「究極の医療」を目指す"百年のブランド"として、三つ指針を上げています。

第一に、患者の利益がまず優先すること
(The needs of patients come first)
第二に、患者の最大限の利益を常に追求すること
(The Best Interest of Patient)
最後に、医療とは協調とチームワークを要する協力の科学である、と。
(Medicine is a cooperative science, requiring collaboration and teamwork、1910年)

ソローの言うように、「春の混沌からの宇宙の創造、黄金時代の到来」秘かな足音を敏感に聞き分け未知の出来事を察知して、積極的に自分の生き方に組み入れていく能力、更に加えて、現代の私たちは、「二・五人称の視点を持って、いかに「臨床の知」として血肉化された教養を身につけるのか、それが大学における「学び」大学教育本来の目的ではないかと思います。

ひいては、本学の建学の精神社会に役立つ道に生きぬく奉仕の精神」とも、その真意においては相通ずるものと私は思っています。

さて最後に、もう一つ、

小説家島崎藤村は、「三智」(三つの智慧)ということを述べています。

人の世に三智がある 学んで得る智 人と交わって得る智 みづからの体験によって得る智がそれである」と。

そして、人間としての基礎をつくる「生きた教養を身に付けるための術は、この三つ以外にはないと、述べています。

これからの四年間、皆さんは、大学生活の中で、「三つの学び」を通して、生きた教養、「臨床の知を身につけた医療人として成長して頂きたいと願っています。

どうか、今日、ここからその第一歩を踏み出して頂きたいと思います。

平成二十八年四月四日
関西医療大学学長 吉田宗平

2016/01/06

Message.02

新年あいさつ

皆さん、あけましておめでとう御座います。

この正月、異常に暖かくもう春かなと思うくらいでした。
何かいい夢をみられたでしょうか?

新年(平成二十八年)は「丙申」(ひのえのさる)の年、季節感では秋、昨年から養ってきたものが実を結ぶ年とされています。

我が家には、正月そうそう嵐山から猿がやってきて、裏庭を走りまわりました。おめでたいのかも知れませんが、はなはだありがた迷惑というのが、私の心境です。

昨年度は、学校教育法改正によるさまざまな改革が国より打ち出されました。人口激減の中にある日本経済を支え、「地方創生」に有能な人材育成のため、大学の改革と、その「質」の保証が求められていると言えます。
私立大学は、国の高等教育のうち、大学数でいえば77%、学士課程の学生数でいえば74%と、その大部分を担っています。しかし、国の私立学校振興助成は、法的には「二分の一以内」を補助することができるとなっていますが、助成法制定後40年を経た現在も10%から伸びてはおりません。また、国公立大学とくらべると、その助成は「十二分の一」と言われており、私学への補助のあり方が問われています。
また、国公立大学とは異なり、私立大学は独自の「建学の精神」を持ち、その学風の中で多様な知識・技能を持つ「分厚い中間層」を育成することが、その使命とされています。
これまでと違い、閉ざされた象牙の塔、「学問の府」というより、開かれた「実践的な職業教育を行う」大学の役割が求められ、時代の大学像は変化しています。

さて、そのような現状の中、本学にとっては、本年は正に認証評価の年であり、その「質」を問われる年であります。前回の認証評価以来この7年間の"成果と反省"の上に立って、本学発展の基礎固めをする年でもあります。

建学の精神、「社会に役立つ道に生きぬく奉仕の精神」とクレドに示した教育の理念と信条(「忠恕」「修己治人」)を創意工夫して、具現化することが求められています。そのため、平成30年の学園創立60周年に向けて、中長期計画とそれを具体化するためのAction Planを作成し、更なる本学発展の道を切り拓く、ターニングポイントの年と言えます。

昨年来、高大接続改革、高校での学力の三要素、大学入試改革が答申され、大学における三P(ディプロマポリシー、カリキュラムポリシー、アドミッションポリシー)の明確化が求められました。すなわち、今日までの偏差値教育を廃止して、学力の三要素、すなわち、「知識・技能」「知識・技能の活用力」「主体性・多様性・協働性」について、高等学校で習うべき教育をどう評価・判定するのか、しっかり、アドミッションポリシーに書き込むことが強調されました。このアドミッションポリシー を作成するには、まずディプロマポリシーを作り、その達成のための課程に基づくカリキュラムを構築すること、すなわち、カリキュラムポリシーの作成ですが、その上で、これらを達成できる人材を如何にもとめるのかを明示して、アドミッションポリシートして公開し、入試選考のよりどころとするころが求められています。要するに、「大学には三つの接続問題がある」と言われます。一つ目は「高校から大学への接続」、二つ目は「大学から社会への接続」、そして、最後は「大学内部におけるカリキュラムの接続」です。

こうした論議の中、国立大学では、機能分化として三分野に分けられ、人文社会分野教育の見直しが提唱されました。一方、私立大学に対しては、都市部と地方の偏りの是正を目的に定員管理の規制強化が制度化され、これからの受験者減少を考えると、中小の私立大学にとっては、更に厳しい現状といえます。

これからの2018年問題、2020年問題、2030年問題と続く、少子高齢化、人口減少化時代に向け、あらゆる知恵と手段を講じて、本学も社会に役立ち、生きぬく道を模索しなければなりません。これまでの上昇気流はもはやなく、真っ向から吹き下ろす風に独自にたち向かわなければなりません。

話は変わりますが、昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した北里研究所顧問の大村智氏は、「こうしたいと思ったら、絶対絶えず求め続けるべき。求め続けなければ授かることできはない。そして、分かれ道があったら、楽な方でなく、難しい道を選びなさい。苦労して失敗しても爽やかな感がのこる」の人生の姿勢を述べています。

勿論、大学の経営、存続のためには大きな失敗は許されません。しかし、本学の教職員の皆さんの失敗を恐れない「チャレンジ精神」を最大限に受け入れつつ、失敗の影響を最小限に止めること、その舵取りによる最適化が、学長としての私の使命ではないかと思っています。

最後に、もう一言、

「強いものが生き残るのではなく、変化するものが生き残る」

とは、チャールズ・ダーウィンの言葉です。

皆さん、こらから始まる入試シーズンを乗り越え、全学が協調して新たなパラダイム・シフトに兆戦できるよう、どうか今年も宜しくお願い申し上げます。

平成二十八年一月六日

2015/07/13

Message.01

『小論語』の世界-「学習」とは何か?

 この『論語』の冒頭(学而第一)は、「小論語」と言われます。日本の江戸時代の有名な儒者伊藤仁斎は『論語』の思想のすべての基礎が込められていると言っています。しかし、そのため「小論語」には様々な解釈がなされています。ここでは、多少我田引水になりますが、字源から「学而第一」述べられている思想を私なりにを辿ってみたいと思います。

(学而時習之 不亦説乎)

 何かを「学びたい」というのは人として本来持っている欲求や好奇心と言えます。未知の知識を探求し、また、新しい技術を身につけたいと思います。しかし、はじめの段階では、物事がよく理解できず知識や形式に振り回され、暗中模索の状態に陥ります。この模索の過程は「学而」と表現されています。すなわち、「学」の旧字は「學」で、両手を使い手取り足取り教わること。自分自身の五感や身体を使って「マネること」を意味しています。そして、「而」は、巫女や巫男の長い髪やひげをイメージしており、呪術的な長くて暗い時の流れを表現しています。そればかりか、惑い捉われ、自分自身を見失ってしまう危険をも暗示しています。『論語』為政第二、十五には「子曰く、学びて思わざれば則ち、罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」とあります。その危険性が述べられています。

 しかし、抱いた疑問を投げやりにせず、思考回路を常に開き、真摯に繰り返し学んでいると突然ひらめきの「時」が来が訪れます。そして、飛び立ちの時となります。「パタパタ(白々)」と雛が巣から羽音をたてて飛び立つイメージ、これが「習う」と言うことの原義です。このような「知の飛躍」が起こるとき、それはなんと楽しいことではないか。わくわくする気持ちになるではないか・・・と問いかけています。また、そこに到達したときの感激、学習過程の本当の楽しさと喜びを語っているのではないでしょうか。

 一方、この思想は日本の茶道や武道の伝統的文化や仏道の根本において「守・破・離」という言葉で伝承されてきました。すなわち、「学而第一」の条文「学而時習之」とは、「学而」(=「守」)から「時」(=「破」)を得て、「習之」(=「離」)へ、と飛躍・発展する学習過程を述べていることで基本的には共通しているのではないでしょうか。

(藤原稜三)

 この「守・破・離」という言葉は、もともとは兵法の修行の過程で用いられたと言われますが、今日では「学びごと」において一般的に使われ、「守」は下手、「破」は上手、「離」は名人を意味するとされています。しかし、上述したように「学而第一」の学習過程を考えると、「守」は惑いながらもひたすら学ぶこと、「破」は教えの言葉からある時突然抜け出し真意を会得すること、「離」は型にいっさいとらわれることなく、自由に飛翔する段階に達することを意味します。

 ここで、大学教育考えるうえで重要なことが二点あります。その一つは、どのような学習過程にも、与えられた体系をひたすら学ぶ、「守」の段階を踏まなければならないということです。もう一つは、その体系や教えの目的も、その規律や教え自体ではなく、むしろ、そこから抜け出し、新たな創造的な次元へと発展することにあります。最近の大学教育において、知識偏重ではなく独創性や個性を尊重することが、盛んに述べられるようになってきました。しかし、重要なことは、いかなる道においても前者の「守」の段階、すなわち「学而」の状態がまずなければならないことです。そうして初めて、「学」から、ある「時」に豁然と「習」への飛翔ができるのではないでしょうか。

 次いで、第二の条文においては、遠方よりやって来た友について述べています。

(朋自遠方 不亦楽乎)

 思いもかけず、遠い遠いところから友がやって来る。談笑のうちに、お互いの学習回路が開かれ、打ち解けて真実を語り合う。それは、なんと楽しいことではないかと。しかし、これを比喩的表現と捉えると、「学」によってまだ惑いの段階にあり、身におびてはいるが、まだその本質に出会っていないとき、それが「習」のある時、突然に身体化されると。すなわち、不要なもの、余計なものが排除され、呪縛から抜け出した喜びを感じる、それが遠方より来て知己を得た友とものように感じられ、うれしいということではないでしょうか。

 最後に、第3の条文では学問への心がまえを述べています。

(人不知而慍 不亦君子乎)

 長い間、世人が自分を認めてくれなくても、怒って拒否的になり、学習回路を閉ざしてしまうこともない。それでこそ、「君子」ではないかと。どんな状況にあっても、この学習回路を常に「開いた」姿勢を相手に対して崩さず、「思考停止」や「思考拒否」をしないこと、すなわち、相手を拒絶したり、差別しないことが語られています。ここには、人間相互のコミュニケーションにおいて、相手に対して常に「学習回路」を閉じない姿勢を堅持することが、ハラスメントを生じさせないための必須条件であることが語られているように思われます。

 学習回路を開き、自己の「中心」がぶれることなく、心のままに偽りないあり方を、『論語』では「忠」と言い、他人への思いやりの心を失わないことを「恕」と言っています。すなわち、「忠」は、人のために誠をつくすこと、すなわち、まごころ。「恕」は、思いやりと言われます。「忠恕」は、まごころを持って、思いやること。『論語』における用例をみると、「忠」は、「曾子曰く、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか、と。」(学而第一の四)とあり、また、「恕」は、「子貢問いて曰く、一言にして以て終身之を行う可き者ありや、と。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施す勿れ、と。」(衛霊公第十五の二四)とあります。この「忠恕」の精神を会得した人が、「仁」たり得る「君子」と呼ばれます。

 最後に、「大学とは何か」とよく言われます。私は、いつも「修己治人」(『大学』)という言葉を思い出します。『論語』の中では、「脩己安人」(自分をおさめ人をやすらかにする)と述べられております。大学教育の本質は、常に思考回路を閉ざすことなく人とコミュニケーションでき、人々に「やすらぎ」を与える医療人を育成することにあると、私は考えています。これが、医療における「究極のホスピタリティ」を目指す基礎となると信じています。